663年の白村江で大敗したヤマト政権は、唐・新羅の日本への侵攻に備えるため、水城そして大野城・基肄城を築きました。『日本書紀』には「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」と書かれており、その土塁の長さは約1.2km、高さ約9m、基底部の幅は約80m、博多側から内陸に向かって狭まる平地をふさぐように築かれ、濠には水が貯えられていました。
大野城市・春日市にも丘陵の谷部を塞いだ小水城と呼ばれる土塁があり、水城大堤と併せて特別史跡水城跡となっています。
延喜元(901)年、菅原道真が大宰府へ西下した際、身支度を整えるため、この地にあった池に自らの姿を映したといいます。あまりにもやつれた姿を嘆き、池の水をかき回したところ水はたちまち濁り、その後決して澄むことがなかったと伝えられています。近年の調査により、明治期以降に造られた幅1.5m、奥行2.5mの石組み池跡が確認され、現在は「姿見井」として復原されています。
四王寺山から南西に延びる丘陵に築造された4基からなる古墳群です。この1号墳は国分小学校建設に伴って調査・復元されました。
内径12m前後の円墳で、南側に開口する複室の両袖を持つ横穴式石室です。全長6.6m、奥室は床面で長さ2.3m、幅2.0m、高さ約2.0m。前室は長さ1.4m、幅1.3m。出土した遺物は、閉塞石中から耳環1、鉄釘2、羨道覆土から留金状金具1、前室床面から耳環3、鉄釘3、絞具2、刀子1、鉄鏃13、輪状金具1、須恵器平瓶1、前室覆土から土師器坏1、奥室床面から耳環1、鉄釘1、刀子1、奥室覆土から土師器坏1、皿1、椀1などがあります。
出土した須恵器から、6世紀末頃に築造されたと考えられています。市内に残る数少ない古墳として、市の第1号文化財に指定されています。