2020年 03月18日
おうちで「だざいふ」チャレンジ!牛乳を使って、古代の「蘇(そ)」を作ってみよう♪
〔おうちにいるみんなへ〕
新型コロナウイルスが広まって学校などがお休みになってしまいました。
そこで、お休みのあいだの時間を使って、おうちで牛乳を使ってかんたんに出来る「蘇(そ)」作りにチャレンジしてみませんか?
むかしの人たちが食べていた「蘇」って一体どんな味がするのでしょう?
その味は出来てからのお楽しみです♪
【保護者の皆様へ】
福岡県では新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため学校が一斉休校となっています。
公益財団法人である古都大宰府保存協会は大宰府の歴史や文化を広く発信していくことを事業の1つとしておりますが、今回の長期間の休校をうけ、子供たちが自宅で太宰府の歴史や文化などに親しみながらチャレンジできることを何かご提案できないか、という思いから様々な取り組みを行っています。
今回ご紹介する「蘇」は、1000年以上前の人々が食べていた古代食の一つです。学校が休校となり給食用の牛乳が余るなか、牛乳とホットプレートと1時間程度の作業時間があれば簡単にご家庭で出来るものです。ぜひこの機会に試してみてはいかがでしょうか。
◆準備するもの
・牛乳 適量
(煮詰めていきますので、出来上がりは元の量の大体10分の1くらいになります)
(本コーナーでは1リットルのものを使用しています)
・ホットプレート
(ガスコンロ等でも調理可能ですが、お子様とチャレンジされることを想定し、火を使わないホットプレートなどを推奨しております。また、ホットプレートは複数使用されますとブレーカーが落ちやすくなりますので、複数で作る際はご留意下さい)
・牛乳をかき混ぜるヘラなど
※調理時間の目安 1時間程度

〔保護者の皆様へ〕
太宰府市にあります永利牛乳は、市内の学校をはじめ福岡県内9市3町の学校給食へ牛乳を届けている会社です。給食の時間に飲まれた記憶がある方も多いのではないでしょうか。
現在、太宰府市では「ふるさと納税」などを通じて休校中における生産活動の支援をしておりますので、永利牛乳株式会社・太宰府市・「ふるさと納税」関連ページ等もあわせてご覧頂ければ幸いです。
蘇とは?
「蘇(そ)」は「酥(そ)」ともいわれるもので、むかしの人たちが牛乳を煮つめて作って食べていたものです。
今から1200年前の平安時代(へいあんじだい)につくられた『和名抄(わみょうしょう)』という辞書には、酥(そ)は牛などの乳から出来ているということが書かれています。
同じ平安時代の『延喜式(えんぎしき)』という法律をまとめたものには、「蘇(そ)」の作り方が書いてあります。
(『延喜式』「民部下」) 作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升
少し文章が難しいですが、大1斗(約7.2ℓ)を煎じる(煮つめる)と大1升(約720㎖)の蘇を得られるということが書いてあり、蘇は牛乳をあたためて10分の1まで煮つめて作っていたようです。
(※「升」や「斗」は当時使われていた量の単位で、大1升を10倍すると大1斗になります。詳しくは後ほどご紹介していますので合わせてご覧ください)
今から1000年以上前の奈良時代や平安時代は牛乳がとても貴重でしたので、その牛乳を10分の1まで煮つめる蘇はもっと貴重でした。そのため蘇は天皇(てんのう)や貴族(きぞく)などが食べるとても豪華な食品でした。
また、栄養満点の牛乳から作るので、むかしの人たちは病気の時にも食べていたようです。その他にも、仏さまへのお供えものとしてお坊さんたちにも大事にされていたようです。
やがて蘇は日本全国で作られるようになり、大宰府からも都へたくさんの蘇が運ばれていた記録が残っています。
ただ、残念なことに蘇の詳しいレシピは残っていません。ナゾの多い蘇を、ぜひ自分で作ってどんな味がするのか確かめてみましょう!
蘇を作ってみよう! 蘇の作り方
①ホットプレートを180℃~200℃前後に温める
②用意していた牛乳を流し込む
③あとは牛乳が焦げないようにかき混ぜつつ、粘り気が出るまで煮つめる


☆ポイント1
ホットプレートの縁などに付いてしまった牛乳は、焦げないうちに内側に削いで「だま」にならないようにかき混ぜましょう。また、かき混ぜないと表面に膜が出来てしまうので、固まらないよう気をつけてかき混ぜましょう。
☆ポイント2
焦げ目が少ないと、風味が良く、美しい乳白色に出来上がります
★出来上がるまでは1時間前後かかります。「蘇」についての色々なお話を下の方に載せていますので、牛乳をかき混ぜながら「蘇」のことをさらに知ってみましょう♪
④1時間程煮つめていると牛乳の水分が飛んで、粘り気が出てきます。さらに固まってきたら、最後はサランラップなどにくるんで形を整えましょう。サランラップの空き箱などを使うと四角い形にするのに便利です。


⑤熱が冷めて固まったら、お好きな形に切り分けて食べましょう♪
(※温かいままでも美味しく食べられます。形を整えて切る場合は冷蔵庫で1時間ほど冷やすと切りやすくなります)
お好みでトッピングをするとより美味しくなるかも?
1300年前の人たちも食べていた「蘇」をどうぞお召し上がり下さい。


蘇を煮つめてかき混ぜる間のよもやま話
蘇が出来上がるまで1時間ほどかかります。
牛乳をかき混ぜている間、蘇にまつわる色々なお話をみてみましょう♪
○蘇を食べる時はどんな時?


公益財団法人古都大宰府保存協会所蔵 饗宴(きょうえん)の膳(ぜん)と蘇(そ)の再現模型

博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ(山村延燁作)
貴族の人たちが開く宴会(えんかい)など色々な時に食べられていたようです。
天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた「梅花の宴(ばいかのえん)」は、みんなが使っている元号(げんごう)「令和(れいわ)」の由来となった行事ですが、その時の食事でも出されていたと考えられています。大宰府展示館では、その時の食事の模型を展示していますので、新型コロナウイルスが治まったらぜひ遊びに来てください。
また、栄養満点の牛乳から作られた蘇は病気の人が元気になるためにも食べられていたようです。
中国の唐(とう)で作られた本で、遣唐使(けんとうし)の人たちが海を渡って日本へ持ち帰り、お医者さんの教科書として使われた『新修本草(しんしゅうほんぞう)』という本があります。
この中で蘇は、内蔵をおぎなって、大腸を良くして、口の中のケガに効く食べ物として紹介されています。
平安時代の貴族として有名な藤原道長(ふじわらのみちなが)は、長和5(1016)年に重い病気にかかりましたが、その時に薬として蘇と蜜(みつ)を煮たものを食べたことが記録にあります。このように蘇は薬のように使われてもいたようです。
○蘇の原料となった牛乳はいつから使われていたの?
奈良時代に活躍した長屋王(ながやおう)という偉い人が住んでいた家の跡から「牛乳」と書かれた木簡(もっかん:木の板に墨で文字を書いたもの)が見つかり、1300年前の奈良時代から牛乳が使われていたことが分かりました。
○むかしは牛からどれくらい牛乳が採れたの?
最初にもお話しした平安時代の『延喜式(えんぎしき)』という法律をまとめたものには、牛から採れる牛乳の量が書いてあります。
(『延喜式』「民部下」)其取得乳者、肥牛日大八合、痩牛半
よく育った牛からは1日に大8合(約576㎖)、痩せた牛からはその半分(約288㎖)の牛乳が採れたようです。
現在の乳牛はエサも美味しくなり、技術も進歩したので、平均して1日に20ℓ~30ℓほど採れるそうです。
むかしの牛乳がとても貴重だったことが分かりますね!
★むかしの人たちが使っていた「量」
じつは奈良時代などむかしの人たちが量るために使っていた「升(ます)」の大きさがどのくらいだったのか詳しく分かっていません。
これまで色々な人たちが調べてきましたが、現在では沢田吾一(さわだごいち)先生が調べた「当時の大1升=現在の約4合(約720㎖)」ではないかと考えられています。
このページでも沢田先生の計算に基づいてご紹介しています。
大1合 約72㎖
大10合 = 大1升
小1升 約240㎖
小3升 = 大1升
大1升 約720㎖
大10升 = 大1斗
大1斗 約7.2ℓ
大10合 = 大1升
小1升 約240㎖
小3升 = 大1升
大1升 約720㎖
大10升 = 大1斗
大1斗 約7.2ℓ
○大宰府でも蘇を作っていたの?
平安時代には日本各地で蘇が作られるようになりました。そこで日本全国を6つの地区に分けて6年に1回ずつ、それぞれの地区が担当して決められた量の蘇を都へ送っていたことが、何度もご紹介している『延喜式』に書かれています。
大宰府は5番目の地区で、巳亥年(現在だと干支(えと)の「へび年」と「いのしし年」)の担当として、都へ70壺の蘇を送ることが決められていました。
大宰府が都へ納めていた蘇の量はどれくらい?
(『延喜式』「諸国貢酥番次」)
第五番巳亥年 大宰府 七十壺
十五口 各大一升
三十五口 各大五合
二十口 各小一升
大宰府から都へ送る70壺は、それぞれ大きさも決まっていました。
70壺のうち15個は大1升、35個は大5合、残りの20個は小1升だったようです。
これを計算すると、
15×約720㎖ = 約10.8ℓ
35×約360㎖ = 約12.6ℓ
20×約240㎖ = 約4.8ℓ
合計で約28.2ℓとなり、とても多くの蘇が都へと送られていた事が分かります。
(『延喜式』「諸国貢酥番次」)
第五番巳亥年 大宰府 七十壺
十五口 各大一升
三十五口 各大五合
二十口 各小一升
大宰府から都へ送る70壺は、それぞれ大きさも決まっていました。
70壺のうち15個は大1升、35個は大5合、残りの20個は小1升だったようです。
これを計算すると、
15×約720㎖ = 約10.8ℓ
35×約360㎖ = 約12.6ℓ
20×約240㎖ = 約4.8ℓ
合計で約28.2ℓとなり、とても多くの蘇が都へと送られていた事が分かります。
現在の太宰府市には九州一帯をまとめる「大宰府(だざいふ)」という役所がありましたので、九州各地で作られた蘇は、まず大宰府に送られて、大宰府でまとめてから都へと送られていきました。
ただし、牛乳がよく採れるかは自然にも影響されますし、都から遠い大宰府ですので届くのが遅れることもあったようです。
永延2(988)年の正月20日、摂政(せっしょう)という高い身分にあった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という人が、自宅で大きな宴会を開くこととなりました。そのため、朝廷(ちょうてい)から兼家に蘇が送られるはずでしたが届きませんでした。
実は、この年の蘇を担当していたのは大宰府だったのですが、都に届くのが遅れていたようです。結局、大宰府からの蘇は20日夕方に都に到着し、翌21日に無事に兼家のもとへ届けられました。
◆主な参考文献
白崎昭一郎「蘇について」1982年 『日本医史学雑誌』28巻
永山久夫『日本古代食事典』1998年 東洋書林
佐藤健太郎「古代日本の牛乳・乳製品の利用と貢進体制について」2012年 『関西大学東西学術研究所紀要』45巻
◇蘇つくりの写真
太宰府市でむかしの人たちが食べていた物や歴史、文化を研究(けんきゅう)している「常若の会(とこわかのかい)」のみなさんが作っているところにお邪魔して撮らせていただいたものです。(2018年7月18日撮影)




〔更新履歴〕
・2020年3月18日 公開開始
・2020年3月19日 数量の表記間違いを修正・大宰府から送られていた蘇の量を追記